「親子断絶防止法案」への危惧
「親子断絶防止法案」の立法に反対する。最大の理由は、現在の日本社会の抱えるもっとも深刻な課題のひとつである、児童虐待への悪影響が大きすぎるからである。
成長過程にある子が両親と交流できることが、抽象的には追求すべき望ましい目標であることは間違いない。しかしこの目標を追求するためには、同時に加害を加える親から子を守ることのできる実効性のある防御が、車の両輪として不可欠である。もしその防御がないままにただ面会交流のみを追求すると、子の被る被害は甚大なものになる。現在、審議されている親子断絶防止法案は、加害親から子を守る手段を具体的になんら設計しないまま、面会交流を機械的にすすめようとするものであり、立法された場合の悪影響が、非常に危惧される。
日本社会は、西欧社会と比較して、孤立した家族への社会的介入が著しく遅れている。民法の親権法は、フランス民法の親権法をモデルにして立法されたが、親権濫用に対して介入する点では、フランス法のように機能していない。現在、フランス民法の定める親権制限判決(育成扶助判決)は、年間約10万件下されており、年間約20万人の児童が育成扶助の対象となって、その親権者は児童事件担当判事とケースワーカーの継続的支援と監督を受けている。日本の人口はフランスの倍であるから、パラレルに考えれば、日本では40万人の児童が司法と行政の保護のもとにあるはずである。しかし実際には、たとえば平成25年度の数字で、日本全国の判決数は、親権喪失6件、親権停止29件、児童福祉法28条による児童福祉施設入所許可認容277件にすぎない。
かつての日本社会のように、大家族や近隣社会の交流が密であれば、家庭内の人権侵害や暴力行為に対する歯止めをかける周囲の力が働く一定の社会的安全弁があり、子は加害者以外の大人との交流で人間らしい共感を感受する能力を培える。しかしこの数十年で大家族や地域共同体の力が急速に失われてしまい、閉ざされたコンクリートの箱の中で孤立して生活する家族には、暴力からの安全弁がなくなっている。児童虐待対応の遅れの弊害は現在の被害としてのみならず被虐待児の成長後の将来に深刻に現れる。児童虐待はエスカレートしがちであり、死亡事件は後を絶たない。無事に生き延びた場合も、被虐待児の脳は傷つけられており、適切な救済と治療がなされないと、成人した後、本人にも社会にもダメージをもたらす深刻な後遺症が残る場合が多い。たとえ子自身が肉体的暴力を受けなくても、DV曝露は深刻な児童虐待であり、暴言虐待と並んで、子の脳の成長を損傷する度合いは、肉体的虐待やネグレクトよりもむしろ大きいといわれる。将来の日本社会が児童虐待の後遺症故に支払うコストは、児童虐待救済にかかる現在のコストとは、比較にならない多額となると試算されている。
離婚後の共同親権や面会交流の実践を行っている西欧諸国の法と日本家族法との間には、構造的に大きな違いがある。その構造を認識せず、親子の交流部分のみを取り上げることは、致命的な失策を招くだろう。「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」(ハーグ子奪取条約)の批准が困難であった背景には、共同親権者間のトラブル、とくに両親間の子の奪い合いに対する、日本と外国との制度設計が全体的にまったく異なっていることがあった。この条約を締結することが当事者を相互に自国内の制度に乗せる約束を意味するだけですむ欧米諸国とは異なり、日本では、その体制がそもそも国内にないのである。
日本の家庭裁判所の手続の実態は、現状を変える力をもたない、比較法的にはきわめて無力な特殊なものである。たとえばDV被害者である妻が救済を求めてきたとき、家庭裁判所は彼女の求める救済を提供することができない。接近禁止命令は逃げる機会を確保するのみで、妻が自力で別居して、一定の年月の実績を作ったときに、法的に離婚を宣言するだけである。欧米諸国の裁判所であれば、夫にただちに別居命令を出し、妻子の生活が成り立つように夫から養育費を強制的に取り立てるであろう。つまり裁判所に申し立てれば、救済は与えられる。その前提で、子を連れて逃げるという妻の自力救済が禁じられる。日本法では、財産法の領域では、判決と強制執行による救済を前提に自力救済の禁止が確立しているが、家族法の領域では、そうではない。DV被害者の妻は、自力救済しなければ救われず、彼女に残されているのは逃げる自由だけである。日本法の現状では、彼女の逃げる自由を減殺するような、つまり子どもを連れて逃げることを封じる方針をとるべきではない。現状でも、養育費の債務不履行に刑事罰をもつ欧米諸国と異なり、日本では、経済力のない妻は、子に教育をつけるために、暴力のある家庭にとどまり続けるのである。
このような特殊な家族法は、明治民法に由来する。明治民法は家族を「家」の自治に委ねて極端に公的介入を廃した家族法であった。そして戦後の改正も、この基本的性格を変更するものではなく、「家」の自治から当事者の自治に委ねる書きぶりに変更されただけであった。すべての離婚が裁判離婚である西欧法と異なり、日本の裁判離婚は、全離婚数のわずか1%である。それが貧弱な司法インフラでも日本家族法がなんとかしのげてきたひとつの大きな理由であった。そして裁判所に現れるような離婚事件は、高葛藤事件ばかりであり、高葛藤ケースにおける面会交流の紛争は、実質的には、児童虐待の問題と重なる。DVは家庭内における支配の構造であって、被害はきわめて深刻であり、被害者は極度の緊張下で過ごし、自己の尊厳を根こそぎ奪われる。加害者は、とかく加害者である自覚を持たず、被害者も、たとえ逃げ出した後も深刻なPTSDを病む。しかし日本の家裁実務は、家庭内における暴力の深刻さにふさわしい手続になっていない。当事者のパーソナリティの偏りや精神的暴力の有無などは、専門的な訓練を経たプロフェッショナルでなければ正確に見抜くことはできない。一見したところ、家庭内暴力の加害者は社会的地位があって理性的で安定した印象を与え、暴力の被害者のほうが不安定な精神状態を示すことも少なくない。西欧諸国では、精神科医や臨床心理士などのプロフェッショナルが親の生育過程、つまり親の親の状況まで詳しく調べる体制をとる国もある。日本の家庭裁判所では、調査官がこの立証過程をカバーする存在であるが、現状では短時間の調査官調査にはさまざまな限界がある。まして調停委員は、そのような訓練をまったく受けていない素人である。家族法領域において法の保障がない欠陥は、社会の輪のもっとも弱い部分、とくに子に被害が集中する。
私は、法制審議会の親権法改正を担当した部会において、面会交流を明示した民法766条の改正を提案した者であり、面会交流にはむしろ積極的な立場をとっている。被害者への支援や援助が圧倒的に足りない現状から、公権力が家庭へ介入し、子どもの福祉を見極めて両親間の紛争を解決する方向に一歩でも進めるべきであると考える。児童虐待という病理に対する正しい対応方法は、虐待親を処罰することではなく、親を支援して親子を共に救済することであるからである。しかしそれは安全な面会交流を実現する手厚い支援を進めるべきであるということである。専門家によるサポート体制もなく、ただ面会交流を当事者に義務づけるだけでは、弊害はあまりに大きく、児童虐待の現状を固定化し、より深刻化するだけとなるであろう。